都筑道夫
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ヒッチコック・マガジン』1959年11月号(宝石社)
誕生松岡(まつおか) 巌(いわお)
(1929-07-06) 1929年7月6日
日本東京府東京市小石川区
死没 (2003-11-27) 2003年11月27日(74歳没)
アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
主な受賞歴日本推理作家協会賞(2001年)
日本ミステリー文学大賞(2002年)
ウィキポータル 文学
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都筑 道夫(つづき みちお、1929年7月6日 - 2003年11月27日)は、日本推理作家SF作家東京市出身。本名は松岡 巖(まつおか いわお)。別名に小林 菖夫、淡路 瑛一、柴田 梅玉、伊藤 照夫など[注 1]。実兄(松岡勤治)は、夭折した落語家鶯春亭梅橋
経歴

東京市小石川区関口水道町(現在の東京都文京区関口)生まれ。生家は漢方薬局的屋を兼ねていた。関口台町小学校を経て早稲田実業学校に進学するも卒業を目前にした1945年12月に中退。そのため、当人は自身の学歴について「小学校しか出てない」と述べている[1]。なお、関口台町小学校の同学年に越智通雄がいる。

三つ年上の兄の影響で子供のころから映画、推理小説、落語、江戸文学、芝居に親しむ。特に芝居が大好きで、ついに芝居熱がこうじて劇作家になることを決意、早稲田実業学校を中退して兄に紹介された正岡容の門を叩き、戯曲の勉強をはじめた[2]。ところが、「なにかのつごうで」小説を書いて正岡に読んでもらったところ、「お前は戯曲よりも小説に向いているようだから、なるんなら小説家になれ」と言われ、一転、小説家を志すことに[1]

ただ、稼がなくてはならない。そのため、1947年頃から約2年間、正岡の世話で神田多町の新月書房に勤務し、雑誌『スバル』の編集に従事[3]。その傍ら『ポケット講談』や『実話と読物』などの読物雑誌に時代小説を発表。この当時は淡路龍太郎というペンネームを使っていたという[4]。その後も複数のペンネームを使い分けるものの、20歳になったときに、このままずっと書いていくなら中心になるペンネームをつくらなきゃいけないと言われ、都筑 道夫というペンネームを考案[注 2]。都筑道夫名義で初めて活字になったのは「木彫りの鶴」という左甚五郎が主人公の時代ものという[1]

この頃、大坪砂男の作品に夢中になり、当時、長野県佐久市にいた大坪に教えを乞う手紙を書いて師事。大坪が新宿歌舞伎町に三畳の部屋を借りると足繁く通い、その数々の奇行に彩られた暮しぶりをつぶさに目撃する[6]

1952年頃、読物雑誌が軒並み廃刊となり、オペラ口紅宣伝部にコピーライターとして入社。しかし、「給料がたかが知れているから、やっぱりなにか書かなきゃ食えない」ということで松村喜雄と一緒に『探偵倶楽部』でフランス小説の翻訳を手がけることに。松村がフランス語の原書を翻訳し、都筑が手を入れるというかたちだったという[1]。その後、松村がこの仕事から手を引くと『探偵倶楽部』の編集長に勧められて今度は英米小説の翻訳を一人で行うことに。しかし、当人曰く「こっちは中学の一年と二年でちょっとかじっただけで、二年の二学期から学徒動員というやつで引っぱられているから、英語なんてのは、ぜんぜんわからないわけだ」。そのため、「英文法早わかりみたいな本」を買ってきてなんとかやりきったという[1]ペーパーバックなど英米ミステリの紹介者として知られた都筑ではあるが、自伝的エッセイ『推理作家の出来るまで』でも自身の英語は26歳の時までに独学で習得したものであると述べており、それであれだけ多くの翻訳を手がけた実績には端倪すべからざるものがある。このことに触れて坪内祐三は「言葉に対する感覚が天才的な人」と評している[7]

1953年、大坪砂男の「街かどの貞操」の第一稿、1954年にも「外套」の第一稿を書く[6]。その後、大坪が大岡山に引っ越すと、大坪が住んでいた同じ家に引っ越した。場所はいわゆる青線地帯で、ベニヤ一枚隔てて行為の声が聞こえてくる中で原稿を書く[8]

1955年、室町書房にて日本初の海外SF叢書である「世界空想科学小説全集」を平井イサクとともに企画したが、刊行は2冊で中断した。都筑が編集長とした関わった時代の『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』。写真は1957年10月号。


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